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ある男

 グラスの中にぽっかりと真っ暗な穴が見えて、僕は驚いて顔を上げた。ここは行きつけの薄暗いバーで、黒光りするほど磨かれた分厚い木製のカウンター、その向こうに馴染みのマスター。棚に並べられた数えきれないほどの酒瓶は緑色の照明に怪しく照らされ、BGMにはチリチリと音のするビリー・ホリデイの古いレコードが、低い音量で流れている。
 僕は自分の腰かけた赤いビロードのスツールの毛羽立ちを撫でて、ほっと息を吐いた。大丈夫、いつものバーだ。マスターは僕の対角線上にいる常連客となにやら話し込んでいて、時折笑い声が起きる。僕はウィスキーのオン・ザ・ロックを頼んだはずだった。
 ぼんやりといつものバーの光景を眺めてから、僕はもう一度手元のグラスに視線を落とした。琥珀の液体が半分ほど入っていたはずのそこには、やはりぽっかりと穴が開いている。
 穴。暗い穴。何もない穴。わずかに角ばったグラスの形に切り取られた深い穴。
 僕は、穴の奥にじっと目を凝らした。そこには、どんな微かな光も空気の揺らぎもない。凹凸を持たず、平板で、底が知れず、硬さも柔らかさも、熱さも冷たさもない。光も音も、影さえも一瞬で吸い込まれて消えてしまう、絶望的に完璧な闇だ。
 僕はさらに目を凝らす。まぶたの裏に、砂鉄みたいな細かいざらつきが見える。――まぶたの裏? 僕は今、目をつぶっているのか? 僕は試しにまばたきをしてみた。だがはたして、今僕は本当にまばたきをしたのだろうか? 目を閉じても開いても、僕の視界にはただ真っ暗な闇があるだけだ。僕は酸素を吸おうとした。しかし、入ってくるのは闇ばかりだ。口を開き、肩を震わせる。闇が迫る。闇が、風呂敷のように僕を包もうとする。


「なにか見えますか?」
 僕ははっと体を起こした。僕はウィスキーのオン・ザ・ロックのグラスに、顔を突っ込みそうな勢いで前屈みになっていた。ビリー・ホリデイがLove Me or Leave Meを歌う声が、遅れてじわりと僕の耳に戻ってきた。マスターはまだ常連客と談笑している。
 僕はゆっくりと自分の右隣を見た。そこには、一人の男が座っていた。いつ店に入ってきたのか、いつ僕の隣に座ったのか、まったく気づかなかった。彼は、もう何時間も前からここに座っているかのようなゆったりとくつろいだ様子で、しかし決してこの場所に馴染みきることのない強烈な外界の空気を身にまとっていた。確かに彼は日本人であるらしいのに、僕が彼に対して最初に感じたものは異国感だった。
 太陽が染み込んだような黒い肌に、思慮深い一対の小さな目だけが控えめに、しかしはっとするような輝きで光っている。黒いスーツはくたびれて、袖口が少し擦り切れており、肘のところがストーブに当たったみたいにテカテカしていた。同じくくたびれた深緑色のネクタイは首元まできっちり締められ、髪は清潔に襟足で整えられていたが、左側頭部の一束だけ、何かの数式で導かれたかのような曲線を描いて跳ねていた。痩せてもなく太ってもいないが、頬は修行僧のように厳しく引き締まっている。全体的に、掴みどころのない雰囲気の男だった。顔立ちも佇まいもなんら特徴がないにも関わらず、まるで似合っていないスーツと意外なほど強い眼光がちぐはぐな印象で、男に奇妙な存在感を与えていた。
「こんばんは」
 男は少しほほえんで言った。目尻に深い皺が寄り、瞳に宿る厳しさがわずかに去る。
「こんばんは」
 僕は答えた。悪い男ではなさそうだと思った。
「すみません、この世の果てを見つけたような真剣さで、グラスの中を覗いていらっしゃったので」
「ああ……グラスに……あの、ウィスキーのオン・ザ・ロックを頼んだのですが、穴みたいなものが開いていまして。あの、真っ暗な穴が」
 自分でも何を言っているのかと思ったが、しどろもどろに説明する。頭の変な人間だと思われたかもしれない。
 しかし男は困ったような顔も呆れたような顔も見せず、目じりにほほえみを湛えたまま、「私にも見せていただいてよろしいですか?」と身を乗り出すので、僕は男に見えやすいように、グラスを少し彼の方へ滑らせてやった。もしかしてバーカウンターにも穴が開いているんじゃないかと思ったが、グラスをずらしたところには、グラスの水滴の跡が残っているだけだった。
 男は真上からグラスを覗き込み、「ふーむ……ふむ、なるほど」と頷いた。
「ああ、あなたにも見えるんですね。よかった、僕の頭がおかしくなったのかと。ねぇ、開いてますでしょう、真っ暗な穴が」
 僕は勢い込んでそう言った。
 男はグラスを僕の方へ押し戻し、にこにことほほえみ、そして首を横に振った。
「いいえ、残念ながら。私にはおいしそうな琥珀色のウィスキーと、美しい形にカットされた大きな氷しか見えませんね」
「そんな馬鹿な」
 僕はグラスを奪い返すようにして、再び覗き込んだ。穴は確かにそこにあり、真っ暗な入口を僕に向けている。僕はそこに頭から突っ込んでいく。平衡感覚が失われ、まぶたの裏が反転する。座っていた赤いスツールが消え、肘をついた木製のカウンターも消えた。不快な浮遊感と酩酊感。僕は口を開ける。悲鳴は闇に飲まれ、鼓膜には届かない。
 ぐらりとスツールから落ちそうになったところを、強い力で腕を掴まれて引き戻された。
「大丈夫ですか? よかったらお水を」
 男が水の入ったグラスを差し出していた。闇に飲まれていた視覚と聴覚が、少しずつ元に戻ってくる。お尻の下に、固く毛羽立ったスツールを感じる。僕は男の差し出したグラスを受け取り、一気に半分くらい飲み干した。のどを通っていく冷たい水の塊が、胸元に残っていた吐き気を幾分和らげた。
 僕はなんとか息を吸い込み、吐き出した。大丈夫、いつものバーだ。曲はBlue Moonに変わっている。僕は目頭を押さえた。
「すみません、多分、ちょっとめまいが。まだ酔っていないと思うのですが。疲れているのかな」
 男は慰めるように僕の肩に手を置いた。顔と同じようによく日に焼けた、節の高い手だ。
「いいえ、あなたは穴に落ちかけたのです」
「しかし、あなただって言ったじゃないですか。穴なんてないと」
「ええ、私にはその穴は見えません。しかし、穴はそこにあります。穴とは、誰もが目にするはずのものです。ただ、それは共有することができないものなのです」
「誰もが目にするはずで、しかし共有することができない」
「そうです。穴はその人だけのものです。しかも、見る人によって形を変えて現れます。時には濁った薄緑の水を湛えて、時には透き通った真っ青な水を湛えて、そして時には、真っ暗な闇を湛えて。しかし共通して言えることは、人は決してその穴の底を見ることはできません。どんなに目を凝らしても、そこには濁った薄緑の水しかなく、透き通った真っ青な水しかなく、ひたすらに真っ暗な闇しかありません。何も見えない。何もない。始まりがなく、終わりもない。じっと見つめていると、そのとめどない穴に飲み込まれていくような感覚を覚えます。恐ろしいことです」
 僕はグラスの方を見ないように注意しながら、そっとそれを奥へと追いやった。
「ならば、その穴を覗かなければいいのですね」
「いいえ」と男はほほえみを口元に残したまま、首を横に振った。
「残念ながら、人は決してその穴から逃れることはできません。穴は向こうからやってきて人の眼前に現れ、否応なしにその深くて暗い入口を突きつけます。そして、その穴を一度見たら、恐怖を抱きながらも目を逸らすことはできないのです」
 僕の目は自然と、向こうへ押しやったウィスキーのグラスの方へと向かった。木製のカウンターに水を引きずった跡が続き、その先に暗い穴がある。僕の視点はいつの間にかグラスの真上にあり、グラスに頭を突っ込むように、穴の中に引き込まれていった。遠くで男の声が聞こえる。
「そこには何が見えますか? いや、何も見えまい。先ほど申し上げました。そこには、あえて言うなら『無』しかない。人はたった一人で、穴の中で『無』と向き合うことになる。穴とはもちろんメタファーであり、一種の概念です。しかしそれは実際的な力を持ち、現実的な影響を人に及ぼします。飲み込まれて二度と上がってこられない人もいれば、普通じゃない状態で帰ってくる人もいます。その穴を、人は便宜上『悲しみ』と呼んでいます。しかし『悲しみ』とは表象的な言葉であり、具体的な事物を指すものではありません。表象的である以上、ある人の悲しみを別の誰かが共有することはできません。それはあなたの心の中にしかない。私の心の中にしかない。あなたの悲しみはあなただけのもので、私の悲しみは私だけのものだ。悲しみの責任は、誰にも求められない」
 男の声はますます遠く、くぐもって聞こえる。僕は息苦しさを覚え、目をつぶった。闇が深くなる。さっきも完全な闇の中にいたはずなのに、もう一段階深い場所へ行ってしまったようだった。闇に厚さが生まれる。重量が加わる。密度が高くなる。僕は怖くなって目を開いた。必死になって目を見開く。何も見えないが、何かを見ようと目を凝らす。まぶたの裏にか闇の中にか、小さくも強い光が瞬いた気がした。
「そうです、それでいい。大事なのは、目を閉じないことだ。目を凝らしている限り、見るべきものは自ずと見えてきます。それは何らかの啓示であり、意思であり、勇気である。……さあ、もう大丈夫ですね」
 男の声がすぐ耳元で聞こえた。彼の温かい手の重みを肩に感じる。
「人はその穴から逃れることはできません。しかし、這い上がってくることはできる。また、他者はあなたの悲しみを共有することはできませんが、這い上がって戻ってくるためのよすがになることはできる――」


 ゆっくりと頭を上げると、琥珀色のウィスキーのオン・ザ・ロックがまず目に入った。美しい形にカットされた大きな氷が溶けて、カランと音を立てて動いた。カメラのフラッシュをたかれた後のように、さっき見た強い光がまぶたに焼き付いている。
「大丈夫? 寝てた?」
 いつの間にかマスターが僕の前に立っていた。
「いや……ああ……あの、彼は? 僕の隣に座っていた」
 僕の右隣には誰もいなかった。
「彼? やぁね、誰も来ないわよ。夢でも見てたんじゃないの」
 マスターはけらけらと声を上げて笑った。僕の対角線上にいる馴染みの客も笑っている。「珍しいな、もう酔ったのか?」
 僕は頭を一つ振って、照れ笑いをした。オン・ザ・ロックを一息に飲み干す。
「まさか。マスター、同じものちょうだい」
 まばたきをすると、一瞬見えるまぶたの裏の暗闇に、一対の光が浮かんで消えた。それは、あの男の悲しみを湛えた瞳のように僕の心に残響する。彼も、彼自身の穴に目を凝らしていたのかもしれない。僕は、彼がこちらへ帰ってくるためのよすがになれるのだろうか。わからないが、そんな機会もあればいいと思う。

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