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金木犀の町

 ありふれた、平凡な町だった。わたしは旅の途中でこの町に寄り、少し早めの夕食を食べていた。ほかに人はおらず、店内には古くさいアメリカンポップが流れていた。

「お客さん、旅の人でしょう。なんでまたこんな町に?」

 追加のビールを運んできたレストランの店主が尋ねた。

「リンドリアンを仕入れに、△△町の朝市に行きたくて」

 △△町はここから三つほど川を越えたところにあって、この町で少し休憩をし、夜通し自転車を漕げば、明け方には△△町に着けるはずだった。

「なるほどね。あそこのリンドリアンは、質、量ともに申し分ない」と、店主は納得したようにうなずくと、BGMに合わせて鼻歌を歌いながらカウンターの中の調理場へと戻っていった。

 安ければいいと適当に入ったレストランだったが、かぼちゃのソテーはなかなかのうまさだった。ありふれた町のありふれたレストランの店主が作る素朴な味は、古びたアメリカンポップによく似合っていた。わたしは店主の運んできたビールを一口含んだ。あまり馴染みのない香りがしたが、苦みがよくきいていておいしかった。

 窓の外はほんのりと暗くなってきていた。少し前までこの時間はまだ昼間のように明るかったのに、いつの間に秋に近づいたのだろう。

 そんなことを思いながらぼんやりと窓の外を眺めていると、突然、大音量でチャイムが鳴った。キーンコーンカーンコーン……キーンコーンカーンコーン……昔ながらの、学校のチャイムの音だ。無遠慮に響きわたるどこか調子っぱずれなその音は、町内放送用の拡声器から流れているらしく、窓ガラスをビリビリと震わせ、控えめな音量のアメリカンポップをかき消した。突然のことにわたしは驚き、とっさに自分の腕時計を見た。夕方五時のチャイムかと思ったのだ。しかし時計の針は四時四十七分を指している。

 チャイムは一通りの音を鳴らすと、金属性の余韻を残して終わった。そしてその余韻も消えぬ間に、ピピ、ガガ、と雑音が聞こえ、ひび割れた、男性とも女性ともつかない声がしゃべりはじめた。

『こちらは、××市、金木犀管理局です。市民のみなさんに、お知らせいたします。ただいまより、金木犀が開花します。繰り返し、市民のみなさんに、お知らせいたします。ただいまより、金木犀が開花します……』

 短い放送は、ブツッという音で切れた。わたしは唖然として、また意味もなく腕時計を見た。時計の針は四時四十八分を指している。

「なんだったんですかね、今のは」

 わたしはカウンターの店主を探してきょろきょろした。「この町では、金木犀の開花宣言なんてあるんですか」

 店主はいつの間にか窓の側に立っていた。店主の開けた窓の隙間から、涼しい秋の夕風とともに、金木犀の甘い香りが流れ込んできた。たしかに、金木犀は咲いたようだった。

 わたしはふと違和感を覚え、店主の後ろ姿をまじまじと見つめた。しだいに、自分の顔のこわばってくるのがわかった。店主はゆっくりとこちらを振り返って言った。

「毎年楽しみにしているはずなのに、放送があるまですっかり忘れていて、突然でびっくりしますね」

 店主はさっきと同じ声で、人間の言葉をしゃべった。しかし、その言葉を発した彼の口は人間のものではなかった。長く前に突き出し、奥まで大きく裂けた口、その先にてらてらと光る平らかな鼻、下あごからは黄ばんだ牙が覗き、顔面全体を硬く茶色い毛が覆っている。頭の上の方についた耳が、ピクピクと動いた。

 いのししの顔をした男は、思わず立ち上がったわたしを、落ちくぼんだ小さな目でじっと見つめた。

「お会計ですか? ありがとうございます」

 

 外は、すっかり夕闇になっていた。薄赤い空に灰色の雲が幾筋も縞模様を作り、東の空には闇がせり上がってきていた。ひやりとした秋の空気を圧倒して、金木犀の橙色の香りが充満している。それは確かな密度と質量を持ってわたしを包み込み、わたしは息苦しくなってあえぐように呼吸をした。肺の中まで金木犀に侵されるようだった。その香りから逃れようにも、金木犀は町中のいたるところに咲き、いささかも薄れたり緩んだりすることなく、執拗にわたしを取り巻いた。ありふれた町の光景に、ただ金木犀の香りだけが、異様な存在感を放っていた。

 金木犀の中を、ジャケットの襟を立てた男が一人こちらに向かってやってくる。彼は散歩を楽しむみたいに、ゆったりと一歩一歩を踏みしめて歩いていた。彼は立ち尽くすわたしの姿に気づくと、顔を上げて、「こんにちは。いや、こんばんはかな」と会釈をした。わたしは黙って会釈を返した。彼の顔はオカピだった。

「ようやく咲きましたね。例年より少し遅かったでしょうか」

 彼は気さくに話しかけてきた。

「不思議なものですね。毎年同じことを繰り返しているというのに、こうして解き放たれるのはいつでも新鮮な驚きと喜びです」

「解き放たれる? いったい何から」

 オカピはわたしの言葉を遮って手を(正確にはひづめを)横に振った。

「解き放たれ、解き放つのです。町を、季節を、我々を、そしてあなたもまた」

 わたしは思わず自分の両手を見た。五本の指は消え、艶やかな黒いひづめがそこにあった。視界はどこまでも広がり、鼻先に触れる風はひんやりとしてすがすがしかった。

 オカピはまた会釈をして去っていった。わたしは自分の長く伸びた影を見つめながら、金木犀の香りの中に、ただ立ち尽くしていた。

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