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はてはての町

 特に用事のない日曜日の午後、僕はそういう日の習慣どおりに、ぶらぶらとあてのない散歩をしていた。ショルダーバックに小金の入った財布と文庫本を一冊だけ入れてとめどなく歩き、疲れたらその辺のベンチに座って、本を読んで休憩する。まだ日中は日が差せば暖かい季節だが、今日はあいにくの曇り空で、分厚くて重たい雲が、鼻先までうっとうしく垂れ下がっていた。天気予報を見てくるのを忘れたが、今日は雨が降ると言っていただろうか。

 歩道に等間隔に植えられたイチョウは、黄葉した葉が早くも散りはじめていて、灰色の世界に目の覚めるような黄色いじゅうたんを敷いている。僕は、イチョウの葉を踏みながら進んだ。少し湿り気を帯びた葉が、僕の靴音を柔らかく包みこんだ。

 つぶれたぎんなんのにおいは、子どもの頃より気にならなくなった。小学校の頃は、通学路にあるイチョウ並木の下を通るのが嫌で、妹と二人、鼻をつまんで駆け抜けたものだった。

 イチョウ並木沿いには、いくつかの小さな商店が立ち並んでいた。青果店、肉屋、コロッケ屋、漢方薬局に熱帯魚屋、花屋に布団直し屋。地元の人には必要十分で、地元の人しか訪れない店の集まりだ。商店街と言うほどの規模でもなく、その店のほとんどが、二階は店主の住居スペースとなっていた。

 日曜日の昼下がりに買い物に来る客は少ないのか、店は半分くらいがシャッターを下ろしていて、熱帯魚屋の店主が水槽の側で暇そうに新聞を読んでいるのが見えるだけだ。僕が熱帯魚屋の前を通り過ぎると、彼は視線だけこちらにちらっと向け、そして、知らない顔が珍しいみたいに、新聞から顔を上げて僕を見送った。

 僕はぎんなんのにおいに背を向けて、花屋の角を曲がって脇道に入っていった。目的があるわけではなく、知らない町の知らない道を、適当に練り歩くのが僕の習慣なのだ。帰りは方角さえわかっていればなんとか帰れるし、行き止まりになれば引き返せばいい。

 その脇道はだらだらと続くゆるやかな坂になっていて、さっきのイチョウ通りの店よりさらに古そうな建物が、せせこましく並んでいた。人が住んでいるのは、おそらくそのうちの半分くらいだろう。道幅は意外と広く、路上駐車の車が二台ほど、ひっそりと停まっていた。不思議なほどに人通りはなく、どの家からも、生活の音らしきものは聞こえてこない。僕は通り過ぎざまに路上駐車の車の中を覗いてみたが、もう何年もここに停まったままになっているのではないかと思うほど雨風に汚れ、冷たく固まっていた。

 上り坂はまっすぐに、どこまでも続いているようだった。僕は気の済むまで、この道をまっすぐ進んでみることに決めた。

 しかし、それから十歩も歩かないうちに、空気のにおいが湿ったものに変わり、灰色のアスファルトにぽたり、ぽたりと水滴が落ちた。と思ったら、サァーっと細かい雨のカーテンが遠くから走ってきて、あっと思う間もなく僕を飲みこんだ。僕は慌てて雨宿りのできそうな場所がないかぐるりと見渡し、そして道の向かいに立つ看板に気づいた。

『古書店はてはて』

 こいつはちょうどいい。

 僕は小走りで道を横断し、薄汚れたガラス戸を押し開いて中に入った。

 チャイム代わりらしい、ドアに取りつけられた錆びたベルが、コロッと鈍い音を鳴らした。ガラス戸を閉めると防音室に入ったみたいに圧が変わり、雨の音は聞こえなくなった。ほこりと、古びた紙のにおいが僕を包みこむ。僕の顔や手やジャケットに貼りついていた外の冷たい空気は、古本のページのすき間にすっと吸いこまれていった。店内は、特に暖房は入っていないみたいだったが、紙の厚みの分だけ暖かいように感じられた。

「いらっしゃい」

 店の奥から、低く落ち着いた声が掛かった。姿は見えないが、店主はカウンターの向こうの部屋に引っこんでいるみたいだ。

 店は縦に細長く、壁の両側と真ん中に、低い天井につっかえるようにして本棚が並んでいる。本棚には上から下までみっちりと本が詰まっていて、木製の棚はわずかにたわんでいた。

 僕は、少し濡れてしまった顔と手を丁寧にハンカチで拭った。静かな店だ。奥に先客がいたのか、ページをめくる乾いた音が棚の向こうから聞こえてくる。僕はハンカチをポケットにしまい、本棚の手前から順番に、本の背表紙を見ながら、ゆっくりと奥に進んだ。

 この古書店は、専門分野を限定せず、雑多なジャンルの本を収集しているようだった。一般によく読まれるような大衆小説や文庫本、新書、料理雑誌の何年も前のバックナンバーから、机に広げたらいっぱいいっぱいになりそうな海外の画集、子ども向けの絵本、古めかしい箱に入った値打ちのありそうな古書までが、特に分類もされず雑然と、脈絡なく並べられている。何か特別な規則性でもあるのだろうか。脈絡がないはずなのに、本たちはそれぞれあるべき場所に収まっているようにも見えて、眺めていると不思議と心が落ち着いた。

 僕は、試しに目についた一冊を手に取ってみた。

『世界の裏側には何があるのか』

 300ページくらいの分厚い文庫本で、表紙には白と黒の反転した街のような絵が描かれている。ちぎれかけた帯には、「ジャーナリスト玉手葉子が見た、『あちら側』の世界! 半年に及ぶ取材を子細に綴った、『あちら側』の世界研究書の決定版!」という文字が躍っていた。

 僕はパラパラとページをめくった。

「私が『あちら側』の世界に行けたのは、まったくの偶然だった。その日、私は仕事の帰り道、スーパーに寄ってねぎと豆腐と白菜を買った。レジのお釣りは88円だった。それに何か意味があったかはわからないが、末広がりで縁起がいいなと思ったから覚えている。そして、ねぎと豆腐と白菜を袋に詰め、スーパーの自動ドアを通り外に出たら、もうそこは世界のあちら側だったのだ――」

「『あちら側』の人々は、我々と少しも違っていないように見えた。ただ、彼らは我々よりもいくらか体系的な思考回路を持ち、物事を一般化するのが好きみたいだった。例えば、彼らにとって犬は犬でしかなく、猫は猫でしかない。牛はすべての牛が家畜で、二足歩行の人以外の生き物を動物と呼んでいる」

「なぜか、『あちら側』の世界にも私の生活は存在しており、私は迷うことなく自分の家に帰りつき、滞りなく当初の予定どおりすき焼きを作った。こちらの世界で私が思っていたように、卵も肉も白滝も冷蔵庫に入っていた」

 どうやらこれは、実録風に書かれた小説らしかった。これはなかなか新しいスタイルだと僕は感心した。もう一度著者の名前を見る。玉手葉子、タマデヨウコか? 聞かない名前だ。どこの出版社から出ているのだと奥付を見たが、それも聞いたことのない出版社だった。

 ふと僕は、強烈な違和感に襲われた。前に、後ろに天井高く並べられた本を見る。僕の家の近所の古本屋とそんなにかわりばえしない光景だ。古い本の味わいのあるにおいも、乾燥しすぎな店内の空気も、全体的に焼けて色褪せた背表紙も。本たちはさっきの印象と変わらず、居心地のよさそうな顔で棚に収まっている。収まっていないのは、きっと僕の方だ。

 僕は自分の心に少し落ち着くように言い聞かせ、もう一度注意深く辺りを観察した。そして気づいた。小説、新書、ノンフィクション、帯に「ベストセラー」と銘打たれた本、どれを見ても、僕の見覚えのあるタイトルが一冊もない。

 僕は、本の虫というほどではないが、常にかばんに文庫本を一冊忍ばせているくらいには読書好きだし、同年代の一般のサラリーマンにしたら、流行りの本や新旧の作家の名前には詳しい方だと自負している。ところが、この古書店で売られている本の中には、目の届く範囲で、タイトルも作者の名前も知ったものが一冊もないのだ。世界の名画全集を開いてみても、セザンヌもいなければマネもモネもいない。印象派らしい美しい油絵は載っているが、どれもこれも聞いたことのない名前の画家ばかりだ。

 僕は重たい画集を手に持ったまま、途方に暮れて入ってきたガラス戸の方を見た。雨が強くなってきたらしく、汚れたガラスの向こうは白く滲んでよく見えない。

「あ、そうだ、店長。こないだ頼んでいた、チャンドラーの新訳は入った?」

 突然、知った作家の名前が耳に飛びこんできて、僕ははっと振り返った。僕からは見えない、真ん中の棚の反対側にいる客のようだった。

「あれね。ちょっと待ってくださいね。なかなかあてがないもんで」

「いやいや、いいんだよ。全然急いではないから」

「すみませんね」

 奥の部屋から、店主がカウンターに出てきたみたいだった。僕はカウンターにちらりと目をやった。

 店主は、いかにも古本屋の主人といったいでたちだった。おそらくくしの入れられていない、七割ぐらい白髪の混じった豊かな頭髪、レンズの分厚い四角い黒縁めがね、ほどよく清潔そうなワイシャツに、毛玉の出始めた茶色のベスト。背はそんなに高くなく、痩せてもいないし太ってもいない。街中ですれ違っても誰の記憶にも残らないし、記憶に残ったとして、せいぜいその重たそうなめがねぐらいのものだろう。

 古本屋の落ち着いた低い声に対し、客の声は少しばかり高く、少しばかり早口だった。

「そういやこないだバーでハコさんに会ったよ」

「へぇ、そうなんですか。彼女、本が売れたから左うちわでしょう」

「そうそう、『世界の裏側には何があるのか』、だっけ。印税でまた旅に出るんだってさ」

「旅って、裏側に行くの?」

「あれ実は、本当には行ってないらしいよ。ハハハ」

「あ、やっぱり。そんな、行こうと思って行ける場所じゃないですもんね」

 彼らの話している「ハコさん」とは、どうやらさっき僕が手に取った本の作者のようだった。僕は、二人の会話が気になって、重たい画集を棚に戻し、そっとカウンターの方へ近づいていった。

「気ままに行き来してるのっていったら、かげねこぐらいだろう」

「かげねこね。またあっちに現れたらしいですね」

「しばらくは、だいぶ遠くに行ってたみたいで、音沙汰なかったんだがな」

「なんでもアマゾンの奥地に行ってたとか」

 古本屋はおかしそうに笑った。

「私は嫌いじゃありませんけどね、彼」

「とんだやっかいもんだよ」

 客の方は、渋い声だった。

「まあ、今まで特に大きな混乱は起きてないんですから」

「今はまだ、ね。しかしこないだY山のお面祭りに裏の人間が交ざったとかいう噂も聞いたし」

 僕は真ん中の棚の端まで来て、さり気なくその反対側を覗きこんだ。そして、思わず声を上げた。

「えっ、猫?」

 古本屋と立ち話をしていた客は、猫だった。いや、猫らしきもの、と言うべきだろうか。彼は後ろの二本足で立ち、前足で器用に棚の本を物色していた。背丈は僕より少し小さいくらいで、お腹がぽっこりと出ていた。全身が、小麦色にこげ茶色の虎模様の柔らかい毛で覆われていて、他に服は着ていないのに、なぜか首に赤いネクタイを締めている。

「着ぐるみ?」

 僕がつぶやくと、猫は少しむっとしたようだった。

「なんだ君、失敬だな。僕はネクタイねこだよ。君は誰なんだい」

 しゃべると、小さい口と立派な口ひげがもこもこと動いたので、確かに着ぐるみではないらしい。

「僕? 僕は……」

 僕は答えようとして、言葉に詰まった。僕は、何と答えたらいいのだろう。「人間だ」と答えるのも、なんだか変な気がした。

「まあまあ」と、とりなしたのは古本屋だった。

「ネクタイねこさん、この方はきっと、『あちら側』から来られたんですよ」

「あちら側?」と聞いたのは、僕の方だった。

 ネクタイねこは、「へぇ、こんなふうなんだねぇ」と、おもしろそうな顔で僕を見た。

「おたく、どうやってこの店に来たんだい?」

「どうやって、って……散歩してたんですよ。知らない町を歩くのが、僕の趣味というか、習慣なんです。そしたら雨が降ってきて、雨宿りにと思って飛び込んだのがこの店だった。特別、何かしたわけではありません。それより、あちら側とかこちら側とか、世界の裏側とか、一体何なんですか? ここは、僕のいた世界と、いつの間にか違ってしまったんでしょうか?」

「さてねぇ」と、ネクタイねこは、ネクタイの結び目をいじりながら古本屋の方を見た。古本屋は、はて、とあごを撫でている。

「それは、言葉で説明するのはなかなか難しい。今あなたがいるこの世界と、あなたがやってきた元の世界とは、異なるようでいて一つのものなのです。しかし、同じものではない。ほとんど変わらないこともあれば、まるで常識を覆されることもある。あなたの元いた世界が消えたり、変わったりしたわけではありません。あなたが、その曖昧な境界線を越えてしまっただけです。それかあるいは、境界線があなたの足元を通り過ぎてしまった。我々はよく、『こちら側』と『あちら側』という言葉を使います」

「僕なんかは、『はてはての町』という呼び名が気に入ってるけどね」

 横からネクタイねこが言った。

「いつだったか遥か昔、そっちの世界から来た人が言ったらしい。『ここははてはての町なのか』ってね。もっとも、君たちから見たらここは『はてはての町』なんだろうが、僕らから見たら、君らの住む町も『はてはての町』だ。行きたいから行くとか、行きたくないから行かない、というような場所ではないのさ。ある人にとってそれが必要な時に、その人はいつの間にか境界を越えることになる。あるいは、特に必要でなくても、越えることもある。近いようで遠い。遠いようで近い。地球の果てと果てが、実は隣り合っているように」

「なるほど」

 僕は頷いた。さっき急激に襲ってきた強烈な違和感は、今ではずいぶんと薄らいでいた。僕は来るべくしてこのはてはての町にやってきて、はてはての町に迎え入れてもらったのだ。

「君がここにやってきたということには、何か意味があるのだろうか。探し物でもあったのかな?」

 ネクタイねこが尋ねた。もう僕には、その答えがはっきりとわかっていた。

「ええ。僕は、妹を探してここに来たのです」

「妹?」

「はい。妹は、二十年前に行方不明になりました。ある日、こつ然と、何の脈絡も兆しもなく。当時妹は十歳、僕は十五歳でした」

 妹がいなくなったのは、二十年と半年ほど前の、よく晴れた春の日のことだった。桜が満開で、ぽかぽかと暖かくて、誰もが少し眠たそうな顔をしていた。僕は新学期早々風邪を引いて寝こんでいたが、昼から熱も下がって、一階の居間でテレビを観ていた。春特有の粉っぽい空気と気だるい暖かさの中、妹は一人はつらつとした笑顔で、学校から走って帰ってきた。そして、玄関にランドセルを放り出して、「お兄ちゃん、行ってくるね!」と大きな声で叫び、ドアを開け放したまま再び飛び出していった。僕は「いってらっしゃい」とも「ドアぐらい閉めろよ」とも言えないまま、ぼんやりと長方形に切り取られたドアの枠から、妹が遠ざかっていくのを眺めていた。それっきり、彼女の姿を見た者は誰もいない。妹は、玄関にランドセルと二枚の桜の花びらだけを残して、すっかり姿を消してしまった。

「警察にはご相談されたんでしょう?」

 古本屋が、気の毒そうな顔で聞いた。

「ええ、もちろん。けど、まったくなんの痕跡も出てこなかったのです。僕がその後ろ姿を見送ったのを最後に、誰も目撃していないし、遺留物も見つかっていない。目立ったトラブルはなかったし、彼女自身、特に問題を抱えているふうではなかった。しかし僕は、その時すでに、彼女はもう見つからないだろうと薄々感じていました。彼女は自らの意思で、この世界から飛び出していったのだと、僕は彼女の後ろ姿を見てわかったのです。ただ、やはり、妹と最後に言葉を交わしたという責任が僕にはあるし、どこかでひょっこり再会できるのではないかという期待も、心のどこかでずっと持っている。たった一人の兄妹ですから。そして、もし彼女に会えたら、一言言ってやりたいのです。『いってらっしゃい』と」

「それで、君のご両親は?」

 尋ねるネクタイねこの小さな瞳は、少しうるんでいるようにも見えた。

「父は当時すでにおらず、母は、三年ほど前に亡くなりました。妹を失って気落ちしたからか、体調を崩しがちでしたので……。そう言えば、亡くなる少し前に妙なことを言っていました。『あの子に会った。好きにやりなさいと言っておいたから、もう心配することはない』って。その頃にはすでに、生と死のはざまで意識の混濁していることが多かったので、妹に会う夢でも見ていたのだろうと特に気に留めていなかったのですが、それ以降母は妙にすっきりした顔になって、逝ってしまいました」

「もしかしたら、お母様は本当に、妹さんに会われたのかもしれませんね」と古本屋は言った。

「ここにやってきて、僕もそう思うようになりました。そんなこともあったのかもしれない」と僕は頷いた。

「そして、あなたが妹さんを探してここにやってきたのは正解でした」

 古本屋は、店内の本を指し示した。

「ここは古書店です。ここには、『誰かの物語』がたくさん集まっています。もしかしたら、あなたの妹さんの物語も、紛れこんでいるかもしれませんよ」

「古書店はてはては、こちらの世界ではおそらく唯一の、『誰かの物語』取扱い書店だからね」

 ネクタイねこは、自分のことのように誇らしげにそう言った。

「その他の一般書も、多く入れていますがね」と古本屋は首をすくめた。

「人は誰しも、それぞれの物語を生きています。幸せなもの、不幸せなもの、劇的なもの、淡々と過ぎていくもの、大長編もあれば俳句のように短いものもある。一か所だけに留まって紡がれる物語もあれば、世界中を冒険していく物語もある。それらはすべて、その人だけの唯一の物語です。おもしろいおもしろくないの感じ方は人それぞれあれど、そこに良い悪いの優劣はありません。そちらの世界ではどうかわかりませんが、こちらの世界では、誰かの物語が生まれたら、それはすべてはてはての町の図書館に納められます。しかし中には、誰か特定の人のための本というものもあります。うちの書店に回りまわって流れてくる誰かの物語は、そういう本がほとんどです。私の長年の古本屋店主としての勘ですが、あなたの妹さんの本は、あなたに読まれるべく、この店のどこかにあるのではないでしょうか」

 僕は、古書店の中を見渡した。決して広くない店内には、決して少なくない量の本がぎっしりと詰まっている。もし、妹が僕のために彼女の物語を残してくれているのなら、僕はどうしてもそれを見つけてやらなければならないと思った。

 どこにいる? お兄ちゃん、ずっと探してるんだ。

 ゆっくりと店内を一周した僕の視線は、ある本の上でぴたりと止まった。右側の本棚の、カウンターに近いところの、上から四段目。僕はまっすぐその棚に近づいて、確信をもってその本を手に取った。

 それは、一冊の絵本だった。大判サイズのハードカバーで、表紙には、白っぽい背景にピンク色の恐竜の絵が描かれている。タイトルや作者の名前はどこにも書かれていない。僕は中を確かめもせず、それをカウンターの古本屋のところへ持っていった。

「これを、僕にください。おいくらでしょうか?」

 古本屋は、にっこりと笑って言った。

「それは、あなたのための本ですから、お代はいりません。あなたに見つけてもらって、きっとその本も喜んでいることでしょう」

 僕は少し迷って、ありがたくいただくことにした。そして、ふと思い出して、自分のかばんから持ち歩いていた文庫本を取り出した。

「あの、よかったらこれを。チャンドラーの新訳です。さっき、ネクタイねこさんの話が聞こえていたので、もしかして欲しいのではないかと」

 ネクタイねこは飛び上がって喜んだ。

「いいのかい? 僕は、たまたまこのシリーズを手に入れて読むことがあって、すっかりはまってしまったんだ」

 古本屋は、文庫本を大事そうに受け取った。

「ありがとうございます。あちら側の本は、お客さんの希望があってもなかなか手に入らないので」

 二人は、僕を出口まで見送ってくれた。僕は二人に礼を言い、手を振って別れを告げた。薄汚れたガラス戸を押し開けて外に出ると、優しい秋の光が僕を包みこんだ。雨はすっかり上がって、濡れた道路や木の枝がキラキラと光り輝いていた。

 僕は、大切な本をしっかりと胸に抱き、晴れ晴れとした気持ちで歩き出した。

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