かげねこ
まったく、かげねこは勝手なやつだ。ある日突然、なんの脈絡も断りもなく、ぼくの影に住みついた。
その日、ぼくは塾の帰り道だった。
「いい月夜だね」
どこからか話しかける声がして、ぼくは立ち止まった。時刻は午後九時を回ったところで、辺りにぼく以外の人影はない。
「どこ見てるんだい。こっちだよ」
電信柱の影がゆらりと揺らめいたような気がして、ぼくは用心しいしい電信柱に近寄った。街灯の明かりが、電信柱の影をまっすぐにぼくの足元まで伸ばしている。その影を辿っていった先にそいつはいた。尖った三角の耳、ぴんと立った長いしっぽ、真っ黒な体に金色の瞳。猫だ。しかし、いやに平べったい。
「いい月夜だね」
猫は再びそう言った。
「そうかな?」
ぼくは空を見上げて首を傾げた。今夜は確か新月で、月の影も形も見えない。
「今日は新月だよ」
ぼくが言うと、猫はひーっひーっと笑った。「新月だって月だろう」
黒猫の影がぼわんと膨らむ。体が伸びる。金色の目が地面を這ってぼくに近づく。そして、怖気づいたぼくが後ずさる間もなく、猫は電信柱の影を伝ってぼくの影に手を掛けた。
「月明かりがないと、影が長く伸びて散歩しやすいんだ。どこまででも行けそうだ」
猫はにやりとぼくに向かって笑いかけると、ぼくの影に頭から突っ込み、長く伸びた胴体まで、ずるんと全部収めてしまった。
「おっと、そんなに嫌そうな顔をするな。悪さはしないさ。ヤドカリみたいに、ちょっと宿を借りただけだよ」
ぼくは試しに右手を上げてみた。街灯の白い明かりの中で、ぼくの黒い右手が持ち上がる。ぴょんぴょんとその場でジャンプしてみた。ぼくの腰の辺りから生えたしっぽが一緒にぴょんぴょんと跳ねる。違和感はない。
「お前、本体はどうしたんだよ」
「さあね。ずいぶん昔に、どっか行っちまったよ。以来俺は、一人で気ままな旅を続けている」
「どれくらい?」
「百年、いや、千年かな。いろんなところに行った。アマゾンの奥地で鳥になって飛んだことも、サバンナでヌーの大群になって走ったことも、キャラバンについて砂漠の中のオアシスに行ったこともある。……あれは酷かったな。あと行ってないのは月ぐらいだ。ひーっひーっ」
ぼくは馬鹿らしくなってそれ以上聞くのをやめた。とにかくこうして、かげねこは僕の影に住みついた。
かげねこは、影の短くなる昼の間はおとなしくしている。あんまりおとなしいのでついにぼくの影から出ていったかと思うのだが、影を見てみると、しっぽが生えていたり、三角の耳が飛び出していたりする。
「おい、しっぽ出てるぞ」
ぼくが慌てて注意すると、かげねこは眠そうな声で謝る。「ああ、そりゃ悪かった」
しかしまた一時間と経たないうちに、「ひげをしまえよ」と言う羽目になるのだ。
かげねこの声はみんなには聞こえていないらしく、ぼくはすっかり、自分の影に向かって話しかける変なやつになってしまった。ぼくは辟易として、とうとうかげねこに「出ていってくれ」と頼んだ。
その日も塾の帰り道だった。月は雲の向こうでぼんやりと光っている。車が通り過ぎ、ヘッドライトに照らされたぼくの影が一瞬大きくコンクリートの塀に映り、そして縮んだ。かげねこはぼくの影から半分くらい体を乗り出して、おもしろそうに笑った。
「なんだ、早いな。まだ半月ほどしか経ってないぞ」
「お前が来てから、ぼくは学校で変人扱いだ。よかったことと言えば、100メートル走が速くなったことぐらいだ。狐でも憑いたんじゃないかって、噂されてるんだぜ」
かげねこは、それには少しむっとしたようだった。
「狐と一緒にされちゃたまらねぇな」
そして、ぬるっと長い胴体を伸ばしてぼくの顔を(正確にはぼくの顔の影を)覗きこみ、金の目を細めて言った。
「出ていってほしかったら、自力で振り払えばいい。おれは別に、お前の影に貼りついているわけじゃない。乗っかって、一緒に移動しているだけだ。走るなり飛ぶなりして、おれを置き去りにすればいいんだ」
なるほど。かげねこの言うとおりだ。
ぼくは走った。街灯の下を駆け抜け、信号に照らされた道を渡り、陸橋に上った。公園のブランコをむちゃくちゃに漕ぎ、滑り台を滑った。飛んだ。転んだ。砂場ででんぐり返りだってした。いくつもの明かりがぼくらの体を通り過ぎ、ぼくらはいくつもの影の上を通り過ぎた。ぼくの影は前に後ろに行ったり来たり、伸びたり縮んだり。かげねこはぼくについてくる。ひーっひーっ。耳障りな笑い声を立て、でこぼこのアスファルトを走り、幾何学的なアパートの塀に切り取られ、歩道柵をピアノでも弾くみたいに駆けていく。タラタタタ。鼻歌まで歌い出しそうな気配だ。
どこかの空き地に飛び込んだところで、ぼくは息が切れてとうとう地べたにごろんと転がった。
「なんだ、もう降参か」
かげねこはからかうように、しっぽ一本をぼくの影に残して、ぐるぐると体の周りを走った。その時。
「あっ」
ぼくは声を上げて目をつぶった。流れた雲の切れ間から一瞬月が顔を覗かせて、仰向けに寝転がったぼくの目を突き刺したのだ。白々とした光が辺りをさっと照らし、そしてまた雲の影に隠れる。今夜は満月だった。
ぼくは目を開けて、辺りを見渡した。
「かげねこ?」
ぼくの影は、ただぼくの影として、黙って地面に横たわっている。
まったく、かげねこは勝手なやつだ。去る時も突然で、あいさつもない。彼はどこに行ったんだろう。案外あのまま、月まで行ってしまったのかもしれない。