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孤独なさかな

 夜の湖は静かでした。風さえも息をひそめ、周囲の森はこそりとも声をたてず、まったく夜の一部になっていました。
 湖のさかなもまた、静かに水の中を漂っていました。湖の面に風は吹いていませんが、湖の中にはゆったりとした波の動きがありました。さかなは、その流れに身を任せ、ゆったりと行ったり来たりしていました。
 さかなはこの湖でひとりぼっちでした。他の仲間のさかなにも、ずっと底の方にいるらしいナマズにも、もっと縁の方にいるらしいカメにも、会ったことがありませんでした。その湖はあまりに広く、小さなさかなが泳いでいける範囲には、ただの一匹の生き物もいなかったのでした。
 さかなは、いつか旅の鳥に聞いた話を思い出していました。
「なんだ、君、ひとりぼっちなのかい。俺ぁ海の方まで飛ぶんだけどね、海のさかなは、何千、何万匹もの群れになって泳ぐんだ。まるで全部で一匹の生き物みたいにさ」
 さかなは、まん丸な目を闇にじっと向けて、何千、何万匹もの魚の群れを想像しようとしました。しかし、どれだけ目をこらしても、さかなの目にはまっ黒な湖しか見えません。
 今夜は新月のようでした。月のない夜の湖は、右も左もなく、上も下もありません。さかなは息苦しくなって、泡をひとつ吐きだしました。泡はゆらゆらと波に揺られながら、ぼんやりと上っていったので、どうやらそちらが上らしい、とさかなは思いました。さかなはえらを一回、二回とあおいで、体をくゆらせて泡を追いかけました。
 ぽちゃん。
 さかなが水面に顔を出すと、かすかに水の揺れる音がしました。それは静かな夜の湖に美しく響いて、オーケストラの残響のように、いくつもの波紋をさかなの周りに広げました。さかなはそれをしばらく興味深げに眺め、ちょっと伸び上がって周囲を見渡しました。
 さかなは、夜の森を見たのは初めてでした。昼間に見るのとは違って、それはちっともさかなに親しみを感じさせませんでした。
「森さん、こんばんは」
 さかなは、昼間や朝によくそうするように、こっそりと森に声をかけてみました。彼らはむっつりと黙って、うつむいたままです。
「寝ているのかもしれない」
 さかなはつぶやいて、今度は湖のまん中の方に目を向けました。さかなを中心に大きな円を描いた波は、次々と湖の果てを目指して走っていき、やがて空と混ざってわからなくなります。最後の波紋が消えた時、さかなは声もなく目をみはりました。
 つるんとまっ平らになった水面に、きらきらと無数の光が散らばっています。
「これはなんだろう」
 さかなは、星を知りませんでした。月の光は明るいので水の中でも見えるのですが、星はあまりに小さくて、水の中からは見ることができないのです。
(もしや、これが何千、何万匹の魚の群れなのかもしれない)
 初めて見る仲間に、さかなはすっかり嬉しくなって、「おーい」と呼びかけながら近づきました。ゆらんと波が動き、光はあっという間もなく黒い湖に飲まれてしまいます。
「どこに行った?」
 さかなはびっくりして立ち止まりました。ゆらんゆらん。大きな波はやがて細やかなさざなみとなり、再び小さな光たちが浮かび上がってきます。
「ぼくも仲間に入れて」
 さかなは、今度は慎重に、じんわりと光に近づきました。しかし、じんわりとした波がすーっとさかなを先回りして、やはり光を飲み込んでしまいます。
「照れ屋なのかな」
 さかなは、またじっと止まって、光が現れるのを待ちました。
「輪の中に入ってしまえば、きっと大丈夫さ」
 さかなはゆらゆら揺れる光が落ち着くのを見計らい、「えいや!」と体中のばねを使って、ばっと空中に身を躍らせました。
 ばっしゃん!
 さかなは光の散らばったまん中に見事に着水し……
 辺りは再び、まっ黒な世界に戻っていました。
 ぱちゃん、ぱちゃん。
 大きく揺れた波が、湖面のあちこちで音を立てています。
 さかなは、まっ暗な湖のまん中で、とても悲しい気持ちになりました。
「みんなどこかへ行ってしまった」
 見渡しても見渡してもそれはただの夜の湖で、さっきまで湖面に散らばっていたきらきらの光は、もう一つも見えないのでした。
「みんなどこかへ行ってしまった」
 さかなはもう一度そう言って、しょんぼりと水に顔をつけました。なんだか涙が出そうだったのです。
 その時――
 突然、二本の黄色い足がぬっと暗闇から現れました。カッと開いた鋭い指が、さかなの銀色の胴体をつかみます。さかなは二度、三度と体をひねりました。爪が引っ掛かって、うろこが何枚か外れました。さかなは水面を離れ、ふわりと浮きあがりました。
 ゴワッ。赤い目のゴイサギが、大きく一声鳴きました。その声は湖面を渡る風になり、森はさわさわと葉を揺らしました。
 さかなの目には、満天の星空が映っていました。何千、何万の光の群れは、今度はさかながどんなに近づいても、逃げることはありませんでした。

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