昔話
「月の涙は、万病の薬になるらしい」
そんな噂話はどこからとも、誰からともなく現れ、そして瞬く間に世界中に広まった。噂は人々の口を転がりながら尾ひれはひれをつけ、海を渡り、川を潜り、山を越えた。アメリカの高層ビルにも、エッフェル塔の足元にも、バチカン市国の内側にも、日本ののどかな農家にも。
「月の涙を飲むと、癌だって一瞬で治るらしい」
「月の涙を飲むと、痴呆の人もはっと正気に戻るらしい」
「月の涙を飲むと、永遠の若さを手に入れられるんだって」
「月の涙は、恋の病にも効くらしい」
「月の涙を手に入れると、一生お金に不自由しないってさ」
「月の涙は、不老不死の薬だそうだ」
中国の内地にも、アマゾンの奥地にも、砂漠の中の小さなオアシスにも、標高五千メートルにある集落にも、噂は少しずつ形を変えながら、余すところなく行き渡った。今や地球上で月の涙を知らない人は一人としていなくなり、そして噂を知った人は、みな例外なく目の色を変えた。
「月の涙を手に入れるぞ」
人々は最先端の知恵と技術を集結して、量産型の、誰でも簡単に月に行けるロケットを開発した。運転は子どもでもわかりやすく、老人でも覚えられるシンプルな設計。金持ちは装飾に拘った豪華なロケットを、貧乏人は必要最低限の機能のみついた安価なロケットを買い、月の涙を入れるための瓶を持って次々に月へと飛び立った。宇宙空間での接触事故、機械の不良による打ち上げの失敗、流星群との衝突、現地に着いてからの小競り合いなどで多くの人が命を落としたが、人々はそんなことにはあまり頓着しなかった。
「なぁに、月の涙さえ手に入れれば、死者だって生き返るのさ」
月に着いた人々は、思いつくかぎりのありとあらゆる方法で月を泣かそうとした。ノミで削ったり、鎚を打ち込んだり、ドリルで穴を開けたり、怖い話を聞かせたり、感動ものの映画を見せたり、なだめたりすかしたり。
月はじっと痛みに耐えた。削られても穴を掘られても爆破されても、じっと目をつむって黙ってこらえた。月は次第にやせ細り、地盤も緩くなり、ちょっとした振動で表面が崩れるようになったが、それでも決して泣かなかった。
地球上では、月の涙と偽ったただの塩水の小瓶が高額で取り引きされ、それを巡って絶えず諍いが起きるようになっていた。人々は疑心暗鬼の目をキョロキョロと光らせ、自分の身を守るため、あるいは、誰かの小瓶を奪うために、常に武器を持ち歩いた。そして、日に日に細く小さくなっていく月を、心細げに見上げては、
「早く月の涙を手に入れないと、取り返しのつかないことになる」
と呟き、なおのこと精を出して月へと繰り出すのだった。今や、月の涙は、荒廃した地球を救う唯一の特効薬と考えられていた。
いつしか月は、小さな庭ぐらいの大きさになっていた。その頃にはもう、月にやってくる人間はほとんどいなくなっていた。小さな月は引力を失い、地球の海は満ち潮も引き潮もなくなって気ままに大陸を侵した。陸上のあらゆる生物は行き場を失い、植物は根を流され、酸素は薄くなり、地球は海も煮えたぎる灼熱の星になった。
そんな時、一人の人間が、息も絶え絶えに月に辿りついた。
「ここにやってくるのは、俺で最後だ。もう地球には何も残っちゃいない。けど、俺が月の涙を手に入れたら、きっと何もかも元どおりだ。月の涙はどんな願いでも叶えてくれるのだから」
男のやせ細ってひび割れた手には、古びて今にも柄の折れそうな金槌が握られていた。
「さあ、泣け」
男はぶるぶると震える手を励まして、薄っぺらい板みたいになった月に、渾身の力で金槌を振り下ろした。月は粉々に砕け散り、足場をなくした男は、暗い宇宙へ吸い込まれるように消えていった。
小さな無数のかけらになった月は、宇宙に散らばりながら地球を見下ろした。美しく青かったはずの地球は、今や赤茶色のマグマに覆われた星になっていた。
「ああ、いたわしい」
四十六億年も兄弟のように連れ添ってきた地球の変わり果てた姿に、月は心を痛め、堪えきれずに涙を零した。砕けた月のかけらはすべて涙になり、きらきらと輝きながら、マグマの海に落ちていった。マグマの海は月の涙を飲みこんだ瞬間に凍りつき、こうして地球は美しく青い氷の星になったという。
「その地球が、あの星だよ」
おばあさんが指差す窓の外の遠くには、青い星が暗い宇宙に冷たい光を放っていた。
「ふうん……お月さまかわいそう」
「そうだね。けどもう、ずーっとずーっと昔の話さ。本当かどうかもわからない。さあ、もう遅いよ。早くおやすみ」
おばあさんが窓のカーテンを閉めて振り返ると、子どもはもうすっかり夢の中だった。