時計守とくじら
その小さな港町には、一つの大きな時計塔があった。海に面した通りにある時計塔は、どのくらいそこに建っているのか、白い壁は灰色にくすみ、赤い屋根は所々板が剥がれかけていて、風が吹く度にみしみしとどこかが軋む音がした。そんな今にも崩れ落ちてしまいそうな時計塔だったが、塔を一番上まで上った赤い屋根の内側には、大きな金色の鐘が吊るされていて、そればかりはいつでもいっぺんの曇りもなく、美しく光り輝いていた。
鐘は一日四回、朝の六時、昼の十二時と三時、夕方の六時に鳴らされた。鐘を突くのは時計守の仕事で、塔の上の、港町のどこからでも見えるように作られた時計の長針がごちんと音を立てて十二の数字を指すと、彼は一秒の狂いもなく、澄んだ鐘の音を町中に響き渡らせた。彼がいつから時計守をしているのか、港町に住む人は誰も知らなかったし、また興味を持つ者もいなかった。人々は、鐘が毎日欠かさず同じ時刻に鳴ってさえいれば、それでよかったのだ。
町の近くの海に住む幼いクジラはその鐘の音が大好きで、毎日毎日、鐘の鳴る時間になると港へやってきて、海から顔を突き出して鐘が鳴るのを待った。
カラーン、コーン、カララーン。
鐘はいつも同じ調子で鳴らされたが、天気や気温、空気の乾き具合、その日の気分、太陽の高さや季節によって、少しずつ音色を変えたので、何度聴いても聴き飽きることはなかった。
時計守は、ひどく年老いた男だった。昔は漁師でもしていたのか日焼けの染みついた黒い肌に、顔中を覆うちりちりとした白い髭、もう何年もはさみを入れられていないような髪も真っ白で、落ちくぼんだ目はよくよく見ないとどこにあるのかわからなかった。背は曲がっていて、いつも膝を擦りながら片足を引き摺るようにして歩いたが、鐘を鳴らす時間になるとたちまちしゃんと腰を伸ばし、迷いのない手つきで力強く鐘を突いた。
彼は時計塔で暮らしているらしく、鐘を鳴らしていない時は、たいてい鐘を磨いているか、パイプをくゆらしながらぼんやりと海を眺めていた。クジラは毎日、一日四回、欠かさずに時計塔の側に現れたので、彼らは時々話をする仲になっていた。
「よう」
クジラの姿を認めた時計守が、パイプを持つ手を軽く上げた。
「こんにちは」
もうすぐ三時の鐘を鳴らす時間だ。
「おじいさん、早く鐘を鳴らしてよ」
「まだ駄目だ。まだ時間じゃない」
「早く聴きたいよ、ねえおじいさん、ちょっとぐらいいいでしょう?」
「駄目だよ。みんな俺の鳴らす鐘で起きて、昼飯を食って、仕事の手を休めて休憩して、晩飯を食うんだ」
「ふうん。大事な仕事だ」
「ああそうだ。だから後もうちょっと、待ってな」
クジラは、自分でもその鐘を鳴らしてみたくて仕方がなかった。精一杯海から顔を突き出してみるが、時計塔のてっぺんは遥か空の上にあるみたいに遠くて、とても届きそうになかった。
何年もの月日が流れた。港町に出入りする船はほとんどなくなり、町を歩く人の姿も見えなくなった。時計守は相変わらず、ぼんやりとパイプをふかして海を眺め、時間になるとてきぱきと立ち上がって鐘を鳴らした。
クジラは大きく立派に成長していた。ジャンプだってできるし、尾びれで海を叩いて、誰よりも高く波しぶきを上げることもできた。遠くの海に泳ぎに行くことも増えたが、それでも毎日鐘の鳴る時間になると大急ぎで港へやってきて、海面から顔を出してじっと待つのだった。
ある日の朝、クジラは今日もいそいそと港にやってきた。胸を高鳴らせながら、時計守の姿を探す。天気が良く、空気が乾いていて、太陽は水平線に顔を出したところだった。鐘を鳴らすのに絶好の条件だ。だが、いつも時間の少し前には背筋を伸ばして鐘の前に立っている時計守が、待てども待てども現れない。
「おじいさん? おじいさん、どうしたの? もう六時になっちゃうよ」
クジラが呼び掛けると、時計守がひょっこりと塔の上から顔を出した。
「よう」
いつものようにパイプを持つ片手を上げる姿に、クジラはほっとして少し潮を吹いた。
「さあ、おじいさん、朝の鐘だよ。町の人を起こさなきゃ。鳴らしてよ鐘を」
時計守は、白い煙を輪っかにして二つ三つ吐き出した。
「ああ、それはもういいんだ。役目は終わったんだ」
「終わったって、どういうこと?」
「もう誰も、この鐘を必要としなくなったってことさ」
クジラは困惑して、町の方を見やった。昇りはじめた朝日が、うっすらと町を橙色に染めている。太陽に照らされた町は絵画のように美しく、まるで生き物の気配がしなかった。
「そういう時が来たんだ」
時計守は深く煙を吸い込んで、少しむせた。喉に絡むような、ガラガラとした咳だった。
「この鐘は、お前にやろう」
クジラは驚いて飛び上がった。
「いいの?」
大きな水しぶきが時計守の顔まで飛んで、彼はしわくちゃの黒い手で、髭に埋もれた目を何度か拭った。
「けど、ここからじゃそんな高いところにある鐘は鳴らせないよ」
「なあに、二三度頭突きでもすりゃあ、この塔はお前さんのものだ。お前は大きくなった」
クジラは喜んで塔に突進した。二度、三度。ずしんずしんと頭をぶつけると、時計塔はあっけなく、海に向かって崩れ落ちた。
くすんだ白い壁も、ペンキの剥げた赤い屋根も、木製の手すりも、鉄骨も、パイプも、時計守も、みんな海に落ちてきた。
クジラが憧れてやまなかった鐘も、金色に煌めきながら落ちてきた。クジラは一目散に鐘に追いつき、渾身の力を込めて鐘を突いた。
海の中で、鐘はカランとも鳴らなかったが、震えるような振動が、どこまでもどこまでも、遠い海の果てまで広がっていった。海に沈んでいく時計守が、微かに微笑んでクジラに向かって片手を上げた。
鐘が鈍く光りながら、ゆっくりと暗い海の底へと消えていくのを、クジラは身じろぎもせずに見送った。