よるどり
何年かに一度、夜ではない夜が訪れる。その夜は、地平線の向こうから、ゆっくりと羽ばたいてやってくる。
空の端から端まで覆う巨大な翼、カラスより黒く、ビロードより深い光沢の羽、フクロウより静かで、木の葉の一つも動かさない羽ばたき。空とビルとの間に真っ黒な筋が現れたら、人々は「よるどりが来た」と言って早々に仕事を切りあげて家に帰り、明かりを消してベッドに入った。
よるどりが上空に差しかかると、地上はすべてタールみたいな重たい影に包まれた。街灯の明かりも看板のネオンも、電車もバスもタクシーも、影の中でひっそりと目をつぶった。星は消え、月も消えた。上空に目をこらすと、よるどりのぬめぬめとした腹が少しずつ動いているのがかろうじて見えた。
僕は、たまたまよるどりと話をする機会があった。
数年ぶりによるどりのやってきた日、僕は家に帰らず、学校の屋上でうす黄色の空の果てから黒い線のせり上がってくるのを眺めていた。それが本当に鳥なのか、確かめたかったのだ。
じわじわと空を覆っていく黒は、あまりに大きすぎて、一体どんな形をしているのか皆目見当がつかなかった。これはただの黒い幕で、神様が気まぐれに地球の上に引っ張ってくるんじゃないか。そんなふうに思った時、空と黒の境目がぐぐぐと持ち上がり、先のとがった二等辺三角形が現れた。二等辺三角形はどんどん細長く伸びていき、さらにその後ろには巨大な丸い出っ張りがついてきた。丸い出っ張りだけで町一つが隠れてしまいそうなほどだ。その二等辺三角形と丸い出っ張りが辺りを見渡すように動いて、僕はようやくそれが鳥の頭だということに気がついた。
真っ黒な顔の中に、エメラルド色のまん丸い目がキラキラと輝いている。高い空の上にあっても大きな目が、屋上にいる僕の方を見た。
「こんばんは」
僕は勇気を出して声を掛けた。小さすぎて聞こえないかと思ったが、よるどりはちょっと頷いて、大きなくちばしをわずかに開いた。
「こんばんは」
よるどりの声は、思っていたよりずっとささやかだった。そよ風みたいな息が、僕の髪を優しく揺らした。
「帰りそこねたのかい、坊や」
「あなたが来るのを待っていたんだ」
「おやおや、もうすぐ夜になるよ。早く帰らないと」
よるどりは、もう空の半分くらいを覆っていた。僕の右半分は夜で、左半分は夕方だった。重たい影が僕の肩にのしかかり、少しずつ僕を飲みこんでいった。
「あなたはどこから来て、どこに行くの? 帰る場所はあるの?」
僕は尋ねた。
「私のとまれるような場所はないからね」
よるどりは言った。
「帰る場所もなければ行き場所もない。だからこうして、ぐるぐる、ぐるぐる、地球を回って飛びつづけているのさ」
「しんどくないの?」
「しんどくはない。疲れたりもしない。ただ、時々、とても孤独だ」
もう夜は、僕をすっぽりと覆っていた。よるどりは、首を伸ばして僕を振り返った。
「君と話ができて嬉しかった」
エメラルド色の瞳は、深い森の中の湖みたいにたっぷりと水をたたえて、透きとおっていて美しかった。
「また、ここで待っているよ」
僕は夜の中で言った。よるどりは湖の瞳をわずかに細めて頷くと、また前を向いて静かに羽ばたいた。
僕は屋上に座って、よるどりが過ぎていくのをずっと見上げていた。長く、静かな時が流れて、夜は突然明けた。よるどりは、次の町に夜を連れて飛んでいった。
あれから、よるどりが来るたびに僕は屋上に上ったが、よるどりの頭はどこか遠いところにあるようだった。たまには、誰かと話したりしているんだろうか。そうだといいと思う。