top of page

ゆめのなか

「ゆ」

 ユーカリの葉には毒がある、なんて、僕にはとても信じられない。だって、目の前のコアラはさっきから無心でユーカリの葉を食べているじゃないか。僕はためしにユーカリを食べてみることにした。青くさい。むしゃむしゃ。固くて筋張っている。むしゃむしゃ。つんと舌を刺すような刺激がある。むしゃむしゃ。気づいたら僕はコアラになっていた。しまったな、と思ったが、僕はユーカリを食べることをやめられない。むしゃむしゃ、むしゃむしゃ。ヒトとしての思考が薄れていき、僕は半分コアラの脳になりかけていた。そして気づいた。別にコアラは、ユーカリがおいしくてそればっかり食べているわけじゃないんだ。ただ本能の指令により――機械的に――えっと、まあいいや――むしゃむしゃ。

 

「め」

 メンバーはそろった。と、ぼやけた視界の中でコアラが言った。僕は次第に意識をはっきりさせ、やがてぱちりと目を瞬いた。あなたは? 目の前のコアラはわかっている、というように頷いた。我々は、君と同じさ。その時初めて気づいたのだが、彼の後ろには二十匹ばかりのコアラが、僕らを囲むようにして立っていた。さて、我々は、ヒトに戻るために出立する。君も来るだろう? 彼はこの集団のリーダーらしかった。瞳には強い意志の力が漲っている。コアラの巨大で真っ黒な目が力強く輝いているのは正直少し怖い。あなたはヒトの思考を再び取り戻したのか? いや。もはや我々はコアラの思考能力しか持たない。その中で私は、コアラの言語とコミュニケーション方法を用いて、ヒトらしい思考の組み立て方をすることに成功したのだ。さあ、行こう。リーダーのコアラが言った。僕は頷いた。コアラの大行進が始まった。

 

「の」

 残ったコアラはわずかに三匹だった。僕と、リーダーと、もう一匹美しい雌のコアラ。後は、ヒトに捕まって動物園へ連れていかれたり、すっかりコアラになってしまってユーカリの木に帰っていったり、谷に落ちたり、川に流されたり、なんだりかんだり。とにかく数多の苦難を乗り越えて残ったのが、この三匹だったということだ。いよいよ最後の難所だ、とリーダーが言った。眼前には切り立った岩の壁。そこに三つの狭い横穴が開いている。我々はこれから一匹ずつ進むことになる。そしてその孤独な道のりの中、自分自身がコアラでなくヒトであることを強く信じつづけなければならない。ほんのわずかにでも、もしかしたら本当に自分はコアラなのかも……などという迷いを持てば、ヒトの姿を取り戻せたところでそれはコアラと同義なのである。ではみんな、武運を祈る。願わくばヒトの姿でまた会おう。

 

「な」

 長い長い通路を僕は四足で急ぎ歩く。僕らは三つの道に別れて進むことにし、僕は真ん中の道を選んだ。もし、この三つの道のうちの一つだけがヒトの姿に戻れる道だとしたら。もしくは、どれか一つだけ外れの道があるとしたら。いずれにせよ、この道はきっと正解に違いない。だってこんなに長く続いているんだもの。もしもう一匹一緒にヒトの世界に帰れるのなら、あの美人の雌コアラがいいなぁ。などと考えていたら突然地面の底が抜けた。僕はあっと思う間もなく、暗い穴を落ちていった。

 

「か」

 数え間違えてるんじゃないの? 飼育員の声が遠くで聞こえる。僕はゆっくりと目を開けた。うたたねをしていたようだ。乾いた風が爽やかで心地いい。動物園は今日も盛況で、僕らのいるコアラ展示室の前は人だかりができている。若い男女のカップルが、僕を指差して何か言い、二人目を見合せて幸せそうに笑った。女は美しく、男は自信に満ちあふれた目をしていた。ともあれ、ヒトが何を思おうが誰と繁殖しようが僕には関係のないことで、とにかく無性にユーカリが食べたい。別段おいしくもないのに、無限に食べてしまうのはなぜだろう。飼育員のぼやく声がする。何度数えても一匹多いんだが……おかしいな……

bottom of page