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​お面祭り(sample)

 足音が跳ね返ってくるような、冷たい夜だった。うらぶれた商店街はすっかり静まりかえり、猫の一匹も歩いていない。まばらに立つ街灯がうつらうつらとまばたきをする中、僕はうつむき加減で、一人足早に帰り道を急いでいた。今夜は満月だろうか。街灯よりも明るい大きな月が、僕の足元に白い影を落としていた。

 そんなに広くもないシャッター街を、ヒュウと音を立てて風が吹き抜けていく。靴屋の特売のチラシが、カサカサと地面を這って後ろに飛んでいった。山間の町では、秋なんてあのチラシが飛んでいくのと同じくらいのスピードで過ぎ去ってしまう。秋が来てから冬支度をしたのでは、もう遅いのだ。

 僕は、スーツの前をしっかりとかき合わせ、そのまま両腕で自分の体を抱くようにして歩いた。コートを持って出るべきだったと後悔する。

 僕は、今年の春に、若い妻と幼い子どもを連れてこの町に引っ越してきた。職場がこの沿線にある工場で、その近さと家賃の安さからここに住むことを決めた。若い夫婦と幼い子どもが珍しいのか、町の人々は何くれとなく世話を焼いてくれるし、寂れていていくぶん不便なことを除けば、温かくて住みやすい町だ。しかし、厳しい季節に向かうにつれ、町全体が暗く沈んだ気配に覆われていくのが気がかりだった。

 最近では、夜も六時を過ぎるとどんな店でも早々にシャッターを下ろし、人々は家の中に入ってぴったりと雨戸まで閉めてしまう。僕が仕事を終えて帰ってくる頃には、駅から商店街を通って僕の住むアパートに帰るまで、一人の住民ともすれ違わないこともしばしばだった。こういう寒さの厳しい場所にある田舎町では、冬を迎えるにあたっていくらか神経質に、閉塞的になるものなのだろうと気にしないように努めていたが、そこにいくらか陰気な影を感じずにはいられなかった。まるで、何か物の怪でも恐れているかのような――

 ふと、僕は誰かの視線を感じた気がして足を止めた。その視線はそれほどあからさまではなく、強いものでもなかったが、これだけ人の気配のないところでは、じんわりと焼けつくような存在感を放っていた。

 珍しく誰か近所の人が出歩いているのか、商店主が遅くまで店に残っていたのか。僕はそう思って辺りを見回した。しかしそこには、シャッターの下りた商店街と不安定に明かりを揺らす街灯があるばかりだ。

 寒さとは別の悪寒が走り、僕は足を速めて商店街を抜けようとした。しかし、ある店の前を通り過ぎようとしたとき、その視線は存在感を増して強烈に僕の右の横顔を焼いた。それは抗えない引力みたいに僕の視線をウィンドウの方に引き寄せた。明かりの消えたウィンドウは黒い鏡のように、僕の引きつった顔を映している。そして、その隣に浮かぶのは真っ赤な天狗の顔。

 ひっと僕は悲鳴を上げかけ、しかしそれをすんでのところで飲みこんだ。僕は、ここがお面屋であることを思い出したのだ。

 それは古い天狗の面だった。天狗の隣には、おかめやひょっとこ、鬼などの、張り子の面がずらりと並んでいる。まだ心臓がドキドキしていたが、僕は怖気づいてしまった照れ隠しに、声を出して笑った。

「結局、怖い話のオチなんてこんなもんだ」

「確かに」

 天狗の面が相槌を打ち、僕は今度こそ飛び上がった。よろめいて後ずさると、背中がどん、と何か硬いものにぶつかった。

「落ち着いてください」

 柔らかい声と共に、背後から肩に手が掛かった。僕は悲鳴を上げて、やみくもに手を振り回しながら振り返った。僕の拳は声の主の顔の辺りにヒットし、彼は「痛っ!」と声を上げて顔を押さえた。そして僕は、それが天狗の面をかぶった人だということに気がついた。どうやら僕が見ていたのは、ウィンドウに映った彼の面だったらしい。

「お、驚かさないでくださいよ」

 僕が気恥ずかしさをごまかすようにぶっきらぼうな口調で言うと、彼は弾みでずれた面を直すように顔を押さえながら、「すみません」と謝った。地元の人らしい、柔らかなイントネーションだった。顔は天狗の面で見えないが、手はほっそりとしていて白く、若い男らしかった。緩い灰色のスウェットの上下に、履きつぶしたスニーカーといった格好が、古めかしい天狗の面に意外なほどよく似合っていた。

「熱心にお面を見てはったんで、あなたもお祭りに行くんかと思いまして」

「お祭り?」

「お面祭りですよ」

「お面祭り……?」

 僕は首をひねった。彼の口ぶりだと、この辺りの人はみな知っている祭りのようだが、僕は町の人が祭りのことを口にしているのを聞いたことがなかった。

「すみません。僕、この春にここへ引っ越してきたものでして。地元の行事とか、あまり詳しくないのですが」

「そうでしたか。すみません、早合点してしまって」

 天狗の面の男は頭をかいた。

「毎年この時期に行われる秋祭りですよ。豊穣のお礼と、やがて来る厳しい冬を無事乗り越えられますように、いう祈りの意味を込めて行われます。そこではみんなお面をかぶって、誰が誰やらわからんようにするんです。別にどんなお面でも、顔が隠れてたらオッケー。なんでお面をかぶるようになったんかいうのには諸説あります。外面的な自分を封印することで、内面的な自分を解放するためやとか、元は鬼の面をかぶって厄除けをお祈りするためのお祭りやったとか。とにかく今は、ただの縁日のようになっています。正体が知れへんので、敵も味方もなく、みんないつもより開放的で楽しいですよ」

「ずいぶん変わったお祭りですね」

「そうなんですかね。みんな、毎年この日を心から楽しみにしています。どうです、あなたもご一緒に」

 僕は少し迷ったが、断った。

「いや、残念ですが、僕は帰らなければ。妻子が待っているので」

「ちょっと覗くだけでも大丈夫ですよ。すぐそこの山やから」

「この辺りの人は、みんな行かれるんですか?」

 僕が尋ねると、天狗の面の男は「まあ、そうですね」と頷いた。

 もしかしたら、と僕は考えた。もしかしたら、最近夜になるとこの辺りが閑散としていたのは、みんな祭りの準備に忙しかったからかもしれない。今日、商店街にまるで人気がないのは、みんな祭りに出かけているからかもしれない。

「ほら、はよお面選んで」

 天狗の面の男は、お面屋のウィンドウを指差した。

 僕は、次第に乗り気になってきている自分を感じていた。その祭りに興味があったし、ひょっとしたら、妻と子どもも近所の人に誘われて行っているかもしれないと思った。

 僕は、ウィンドウの面を見た。ひょっとこ、おかめ、鬼、河童、猿に馬。どれも骨董品のように古びて、月明かりの中にくっきりと浮かんで見える。

 その中で、僕の目は自然と一つの面に引き寄せられた。能楽で使われるような、童の面だ。あどけない表情で、口元に愛くるしい笑みを浮かべている。

「ええやないですか」

 天狗の面の男は、僕が童の面を見ていることに気づくと、何気ない様子でウィンドウに手を伸ばした。彼の白い手は、水でもくぐるみたいにウィンドウのガラスを通り抜け、陳列されていた童の面を取り上げた。そして、ぼんやりと眺めている僕の顔に、流れるような動作でそれをかぶせた。童の小さな面は、それが元々僕の一部であったかのようにぴたりと顔に吸いついて収まり、その瞬間、天狗の面の男がどうやってガラスを越えたのかとか、早く家に帰らなければとか、天狗の面の男の正体だとか、そんな疑問はひどく些末なことのように思えて、どうでもよくなってしまった。

「さあ、急ぎましょう。もうとっくに始まっている頃や」

 天狗の面の男は、僕に向かって手を差し出した。僕は、今度はためらいもなくその手を取った。天狗の面の男は、僕を連れて走りだした。男の手は、意外と硬くてかさかさしていて、僕は幼い頃、父親に手を引かれて走った時のことを思い出した。自分よりずっと若そうな青年にこんなことを思うのはおかしいような気もしたが、彼がいかつい天狗の面をかぶり、僕がいとけない童の面をかぶっている今は、それは正しいことのようにも思えた。

 僕たちは、どんどん人の住む町から離れて、裏の山に向かっていった。天狗の面の男は、古びたスニーカーで飛ぶように走った。足音はほとんど立てなかった。僕らはそのまま、山道に入っていった。山道は、重なり合う木の枝で月明かりも届かず、ほとんど足元も見えないような暗さだったが、天狗の男は速度を緩めることもせず、迷いのない足取りで土の道を駆け上がっていく。

 僕は天狗の面の男に引かれるまま、一心に足を動かした。彼に手をつながれているからか、僕は全然怖いと思わなかった。もう長いこと運動らしい運動もしていないはずなのに、不思議といくらでも走っていけそうな気がした。

 視覚が閉ざされると、山はにおいと音で僕らに覆いかぶさってきた。湿った土と、朽ちかけた木のにおい、杉の緑のつんとしたにおいと、広葉樹の葉が土にかえっていくにおい。風はなくても木々の枝は揺れる。僕らが駆け抜けた後ろの暗闇で、見えない葉っぱがカラカラと鳴った。足元を何か小動物が逃げていく。新しい音とにおいが、正面からぶつかってきては僕らの体を過ぎていく。

「疲れてへんか、坊や」

 黙々と走っていた天狗の面の男がそう言った。彼は僕に、幼い子どもに対するような口のきき方をしたが、それは僕の心の深く懐かしい場所に、すとんと落ちていった。

「うん、平気だよ」と僕は答えた。

「いい子や。もうすぐ着くで、ほら」

 顔を上げると、坂を登りきったところに見える空が明るかった。そして、大勢の人のざわめきと、パチパチと火のはぜる音、笑い声、笛の音。

 僕は、顔を輝かせて天狗の面の男を見た。しかつめらしい天狗の顔が、赤々と輝いて見えた。彼は面の下で、にっこり笑ったようだった。

「さあ、自由に楽しんどいで。ただ、決してお面は取ったらあかんで」

 天狗の面の男は僕の手を放し、僕は残りの上り坂を、一人で一気に駆け上った。

「わあ!」

 僕は思わず歓声を上げた。

 そこは広く平らな台地になっていて、その真ん中に大きな井桁が組まれ、高々と火が燃え上がっていた。たき火の周りには大勢の人が無秩序な円を作り、思い思いに踊ったり、酒を飲んだり、肩を叩きあって笑ったりしていた。みんな面をつけていてどんな表情をしているのかわからないが、楽しそうだ。

 僕は広場に向かって駆けだしていた。

 

 

 広場は、たき火と人々の熱気で暖かかった。僕はスーツの前ボタンを外し、ネクタイを少し緩めた。

 天狗の面の男が言ったように、ここにいる人々はみんな面をつけていた。僕と同じ能楽用の本格的な面から、お祭りでよく見かける薄いプラスチックのキャラクターものの面、小学校の学芸会でかぶるような、お手製の紙の面まであった。

 たき火の向こうにはずらりと屋台が並んでいて、ソースやしょうゆなどの食欲をそそるにおいが、白い湯気となってもうもうと立ちこめていた。

 りんご飴、えびせんべい、焼きそばにフランクフルト。食べ物だけでなく、ヨーヨー釣りや型抜き、くじ引きの屋台も出ている。よくある祭りの夜店の光景だが、一つ違うことには、屋台の店主までもがみんな面をかぶっている。僕は物珍しげにきょろきょろしながら歩いた。

「坊や、一人で来たん?」

 屋台を練り歩くうち、何人かにそう声を掛けられた。童の面の下には、灰色のスーツを着てビジネスバッグを持った大人の男の姿があるのだが、人々はそんなことには頓着せずに僕を子ども扱いしてくる。

 僕も、特に違和感や抵抗もなく、「天狗のお兄さんに連れてきてもらったんだ」と答えた。ぴったりと僕の顔に貼りついた童の面のせいか、懐かしい祭りの雰囲気に童心に帰っているためかわからなかったが、これが今の自分のありのままの姿のような気もした。

 天狗の面の男は、どこへ行ったのか、さっきから姿が見えなかった。ここまで連れてきてもらって、ろくにお礼も言っていないし、せっかくだから一緒に屋台を回ろうと思ったのだが、このたくさんの面の人の中から目当ての人物を見つけ出すのは難しそうだった。まあきっと彼も、この大勢の人の輪の中のどこかで楽しんでいることだろう。そう思うことにした。

 屋台のいいにおいをかいでいるうちにおなかがぐうと鳴り、僕は何か食べようと屋台を一軒一軒覗いて回った。たこ焼きか、フランクフルト。焼きそばにビールもいいな、と迷っていると、隣の屋台から「坊や、甘栗はどうや」と声が掛かった。視線をそちらにやると、イノシシの面をつけた店主が首からタオルをぶら下げて、忙しそうに栗を炒っている。たっぷりと突き出した腹に下着みたいな半袖の白いTシャツがめいいっぱい引き伸ばされて、薄着にも関わらず、大きな汗染みができていた。屋台のテントには、「おいしい天津甘栗」と、黒く太い字ででかでかと書かれている。

 甘く香ばしいにおいに惹かれて、そっちの屋台を覗きこむと、「おいしそうやな。親父さん、それ一袋。いや、二袋くれへんか」と、長い腕が後ろからぬっと伸びてきた。振り返ると、ひょっとこの面をかぶったひょろりと背の高い男が立っていた。深いブルーのネルシャツに、穿きこなれたジーンズがよく似合う、スタイルのいいひょっとこだ。

「毎度」

 紙袋に手際よく甘栗が詰められ、それが二つ、ひょっとこの手に渡される。

「おおきに」

 男は店主にお金を払って袋を受け取ると、その内の一つを、僕の手にひょいと持たせた。

「おごりやで、坊や」

 僕は戸惑って手の中の栗を見た。炒りたての栗は、分厚い紙袋の底でほんのりと温かく、ずっしりと重かった。

「よかったなぁ、坊や」

 イノシシの面の店主が言った。

 僕は背の高いひょっとこの面の男を振りあおいで、「ありがとう」と言った。ひょっとこの面の男はとぼけた顔で頷いて僕の頭を撫でると、たき火を囲む輪の中に消えていった。

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